引き続き「書棚から一冊」。今回は日本史です。私は高校時代 日本史も世界史も苦手でした(勉強を放棄していた)ので,塾屋になってから中学生に歴史を授業する必要に迫られて学参の類いをいろいろ読んだものです。しかし,知識を詰め込んで吐き出すだけならいわゆる学参で用は足りるかも知れませんが,それだけではろくな話にはなりません。もっと深い理解とか思考を経ての“教養”のようなものが授業者に備わっていなくては,生徒は聞く耳を持たないものです(歴史に限ったことではありませんが)。そのためには専門の歴史家などの著書にあたるのが正攻法ですが,素人としては同じ授業者の著作に助けられることも多いのです。
相澤理『歴史が面白くなる 東大のディープな日本史』『同2』『同3』(KADOKAWA 中経出版,現在は「古代・中世編」と「近世・近代編」に再編されて「中経の文庫」に収録)
著者の相澤氏は執筆当時 東進ハイスクール講師,現在は学校内予備校「RGBサリヴァン」の講師などをされています。東大日本史は戦後史をほぼ出さないのだそうで,戦後史については同シリーズの『ディープな戦後史』で一橋大の入試問題を扱っておられます。
この3冊で印象深いのは大日本帝国憲法の精神についてです。東大日本史でしばしば出題されるためでもあるようですが,本書でも『日本史』の問題17と20,『日本史2』の問題20,『日本史3』の問題16など,何度も取り上げられています。「繰り返されることは大事であるがゆえ」と『日本史3』のあとがきにあるように(後述),重要なテーマであるからに違いありません。
人権に関して,よく「大日本帝国憲法は非民主的で日本国憲法は民主的」という言い方がされ,私もしていた記憶があります。「大日本」での「法律ノ範囲内ニ於テ」という表現から,キツイ制限があって人権などろくに認められていなかったかのようなニュアンスで語られてしまう。これがどうも違うのです。憲法は権力者から国民の権利を守るためにあり,憲法は「権力者が守らねばならないこと」を定めたものなのです。
自由や権利を政府の恣意的な「命令」によって侵害することは許されない。だから法律で守る。それが「法律ノ範囲内ニ於テ」という文言の(本来の)意味なのです。(『日本史3』p.199)
ということなのですね。一方,天皇の統治権については「此ノ憲法ノ条規ニ依リ行フ」と制限をつけています。制定当時中心人物だった伊藤博文の強い意向によって採用された文言だそうです。伊藤は「国家権力(統治権)は憲法によって抑制されるべき」という立憲主義の精神を正しく理解していました。
大日本帝国憲法が非「民主的」だったわけではなく,戦前の国民が憲法を「民主的」に運用できなかった,ということになります。(『日本史』p.224)
そして現代の「日本国憲法」は,その「民主的」な精神に則り,「民主的」に運用されているだろうか?--と,本書は繰り返し問います。
ところで,『日本史3』の「あとがき」では前回本欄で取り上げた『新釈現代文』のことに触れられ,さらに学びの構造というものに言及されます。
最後に一言、この本によって「たった一つのこと」を理解する道もまた、当の「たった一つのこと」によるべきであることを申し添えます。ずいぶん長い「追跡」でしたが,どうぞこの本は、二度読んで下さい。どんな書物でもそうですが、二度読んではじめて読んだと言えるのです。(『新釈現代文』より)
この一節が示されたあと,しばらくおいて
さて、予備校講師として長年生徒と接してきて感じることは、東京大学をはじめとする難関大に合格する優秀な生徒は決まって、繰り返すことを苦にしない、ということです。授業で前回説明したことをもう一度話しても、絶対に「またかよ」という顔はしません。逆に、ここは聞き漏らさないという真剣な表情に変わります。繰り返されることは大事であるがゆえに繰り返されるということを、よく知っているからです。
では、学ぶ者はどのようにして<意味>を理解するのか。それは、二度繰り返されることによります。師が二度も同じことを繰り返すのだから、きっと大事なことに違いないという揺るぎない確信から、学びの構造は起動します。
書物に学ぼうとするなら,やはり二度は読まなくてはならないのです。そもそも大事なことは一度読んだくらいでは身につかず,“師”と仰ぐ本を何度も読み返すことになり,本はだんだん汚れ傷んでいきますが,相俟って愛着も増していく。そうして知識は知恵へと発展してゆくのでしょう。